すみれブログ
ところ変われば
2012年04月11日

先日、たまたまテレビで放映していた「忠臣蔵」という映画をつい最後までみてしまいました。

 

「忠臣蔵」といえば、日本人の誰もが知っている有名な話です。元禄14年3月14日、播磨赤穂藩主の浅野長矩(内匠頭)が、高家旗本・吉良義央(上野介)に対して江戸城殿中(松の廊下)において刃傷に及び、浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となりました。これに対し遺臣である大石良雄(内蔵助)以下、赤穂浪士47名(四十七士)は翌15年12月14日、深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害したという一連の事件です。

 

主君に対する忠誠心を命をかけて貫いた家臣達の行動は、日本人の心を甚く揺さぶるようで毎年どこかのテレビ局で繰り返し放送されています。知り合いの御仁に云わせれば四十七士達の主君に対する忠誠心には泣けて泣けて仕方がないんだそうです。

 

たしかに、赤穂藩側から見れば赤穂浪士(四十七士)の討ち入り行為は家臣(武士)の義挙として立派な行動だったといえるでしょう。

 

しかし、吉良側から見れば、これほど理不尽な事件はありません。

 

そもそも播磨赤穂藩主の浅野内匠頭は幕府より朝廷の勅使の接待役を命じられ、吉良上野介はその指南役だったので吉良上野介にしてみれば一生懸命指南しただけなのかもしれません。それなのに今まで他人に批判された経験のない世間知らずのお殿様(浅野内匠頭)は、それを単なる嫌がらせや苛めと受け取ってしまい、それが原因で二人に確執が生じてしまったのでしょう。

 

そうだとしても、やはり悪いのは殿中で吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭のはずです。さらに吉良にとって不運なことに幕府は浅野内匠頭だけに切腹を命じ、吉良に対しては一切お咎め無しでした。

 

これが原因で吉良上野介は赤穂藩から逆恨みされて、翌年の暮れに赤穂浪士に寝入りばなを襲撃され、首を刎ねられて晒し首にされた上、家督を継ぐはずの長男も失って吉良家はお家断絶です。

 

この映画では吉良上野介は悪代官のごとき極悪非道の人物に描かれていますが、よく考えるとそこまでされるほど悪いことをしたとは思えず、なんともお気の毒です。

 

そもそも幕府の裁定は正しかったのか、今から300年も前のことですがいろいろ考えさせられる出来事です。

 

翻って私たちは世の中の出来事の殆どはテレビや新聞などのマスコミを通じて知ることになります。一方的な情報のみで物事を判断すると、本質を見誤ることがあることを常に肝に銘じなければなりません。世の中の出来事も発明も判例も多面的にとられることが大切だと思います。

 

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